その多くが「自殺」というショッキングな結末として報じられることから、国際的に比較しても深刻だと言われる日本の「いじめ」。
しかし、実際のところ「世界のいじめ」はもっと深刻だ。
ユニセフの調べでは、世界の13歳から15歳の3人に1人以上が日常的にいじめに遭っている。
アメリカでは7分に1人の割合でいじめが発生しており、毎年16万人がいじめによって不登校となっている。
そしてそのストレスは時に、銃乱射による大量殺人事件として最悪の結末を迎えることさえある。
東欧のルーマニアでは、11歳~15歳の子供たちの60%以上がいじめを行っているというデータもある。
オーストラリアでは、27%の子供たちが日常的にいじめに遭っている。
また、83%がいじめられたことまたはいじめたことを経験している。
また、近年では日本でも世界でもオンラインの利用による「ネットいじめ」が問題となっているようだ。
こうして世界のいじめと比較すると、日本のいじめはそれほど激しいものではないようにも思える。
しかし、なぜ自殺者が後を絶たないのか?
今回は、いじめの被害者にも加害者にもならないために、子供にどういうことを伝えればよいのかについて、海外の事例をもとに探ってみる。
傷害事件が起きても警察に連絡しない日本の学校
まずは、この動画を見ていただきたい。
これはシドニーの高校で行われたいじめのワンシーンだ。
※オーストラリアでは中学1年相当からハイスクールとなる
右側の体の大きい15歳の少年が12歳の少年に殴られている。
ニュース映像のため音声が出ていないが、実際の動画では撮影者からもののしられている。
顔や体を殴られつづけ、ついに、怒りが頂点に達したのか、少年はいじめっ子をボディスラムで地面にたたきつける。
12歳のいじめっ子は体全体をコンクリートに打ちつけられ、ふらふらとなる衝撃的な映像だ。
さて、この動画を見て皆さんはどう感じただろうか?
「よくやり返した」「仕返しであっても暴力はいけない」など賛否両論かもしれない。
現地の反応はどうだったかというと、ほとんどの人が「よくやった」と称賛の声だった。
ただし、学校側は事態を重く見て、両者ともに4日間の停学処分とした。
Source:The Daily Telegraph
どちらの少年が悪いのか?ということは今回さておく。
ここで伝えたいのは、この一連の出来事が日本のいじめの対応と比べるとかなり異なる面があるということだ。
まず、動画の後半に警察が入っていく様子が見受けられる。
オーストラリアでは、このようないじめの事案も暴力が絡んでいる以上、警察が動くことが当然とされている。
しかし、日本では自殺者でも出ない限り、警察が動くことはほとんどない。
なぜなら、学校側が要請しないからだ(校内で傷害事件が起きているにもかかわらず、だ)。
2012年の大津市中学生いじめ自殺事件において、被害者の両親が3度にわたって警察に被害届を出したにも関わらず受理されなったというのはあまりに有名な話だが、「いじめくらいでは警察は動かない」というのが日本社会だ。
※この事件以降、いじめによる被害届は急増しているらしい。
自殺を助長していることに気づかない日本のメディア
そして、報道の在り方も異なる。
上記の報道では、この仕返しをした少年を「Webのヒーロー」として扱い、実名で報じた。
さらに事件が起きた学校名と住所も報じられている。
彼の名はケーシーくん。
この記事によれば、ケーシーくんはもともとおとなしく暴力をふるうような子供ではなかったという。
この時まで一度も暴力をふるったことはなく、4年間にわたって「デブ」と言われたり、殴られてりしていじめられ続けていた。
実名報道については、日本人の倫理観からすれば、多くの人が実名報道に否定的だろう。
この映像や報道は、オーストラリアばかりか世界をめぐった。
その結果、彼をサポートするFacebookページが立ち上がり、いじめを経験した子供やその親たちから多くの称賛の声が集まった。
これが「少年A」としての出来事だったら、おそらくここまで大きなうねりとはならなかったであろう。
もちろん、なんでもかんでも実名報道するべきではないが、報道の仕方一つで、見ている人の行動が変わってくるということは肝に銘じてもらいたいところだ。
ケーシーくんは現在20歳。このFacebookを皮切りにSNS界で「いじめ撲滅」の象徴となり、現在はいじめを撲滅する活動を仕事としている。
日本では、少年への報復やネットでの揶揄から守るために実名報道などあり得ないだろう。
しかし、ここまでとは言わないが、この事例と比較すると日本の学校は閉鎖的すぎるのではないだろうか。
閉鎖的な社会ではいじめが増長するというシナリオは当然であるにもかかわらず、
なぜか、学校も地域も「警察沙汰にはしないように」「子供のため(?)内密に処理するように」という雰囲気が充満している。
こういう空気感を作っている1つの要因としてメディアの報道の仕方という問題が挙げれる。
いじめに関して、自殺というショッキングな出来事ばかりを報道しているところが問題だ。
なぜなら、皆さんも一度は耳にしたことがあるだろう、このような遺族の言葉。
「わが子の死をムダにしないためにも、事実を明らかにして、いじめ撲滅に役立ててほしい」
大人が聞けば気丈な言葉だが、自殺したくなるくらい厳しい思いをしている当事者の子供からすれば、
自殺することで、こんなにも同情が集まる、何かの役に立つ、ということを提示してもらっているに過ぎない。
新聞やテレビは事実を報じることが仕事だが、「自殺」ばかりを扱うべきではない。
ケーシー少年のように、いじめを克服した子供のことも報じるべきなのだ。
※ここではケーシーくんとケーシーくんを殴っていた子のどちらが悪いかという議論は省く。
オーストラリアの学校のいじめ対策
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さて、ここからは、実際にどうやっていじめを少なくするか、いじめられない人をつくるかについて考えてみたい。
以下に、オーストラリアの学校がどのような対策を行っているかを列挙していく。
オーストラリアの学校では「National Safe Schools Framework(安全な学校のための基本的枠組み)」という枠組みを設けている。
その中で、「いじめ」を「個人又は集団により、1人以上の人に対して繰り返して行われる、言語上の、物理的、社会的、心理的な行動で、有害で力の悪用を伴うもの。ネットいじめとは、 情報通信技術を通じてのいじめを指す」と定義している。
そして、具体的には、以下のような取り組みがある。
●いじめ対策の明示ルール:児童生徒が教師のもとにやってきていじめを受けたと言ったときには、教師は「学校が何をするのか」を児童生徒に明示しなければならないルール。日本ではいじめの報告があった時に、教師が個別に対応することが多いのではないだろうか。
●ハーモニー・デー(調和の日):小学校で行われる、人種や宗教、男女差による差別をなくすにはどうするべきかについて、子供たちで話し合う特別授業。オーストラリアではPrep(幼稚園年長児に相当)から行われている。
●シチズンシップ教育:中等以上の生徒に対して行われる民主主義教育のことで、他人を尊重することや個人の権利と責任の関係性などについて学ぶことで、子供の市民性を育てることを目的とした教育。日本の生活科や社会科に近い教育であるが、社会や経済のシステムを教えることで留まる内容ではなく、シチズンシップ教育では社会問題にどうやって個人が他社とかかわりながら解決していくのかを探っていく。当然、いじめの問題についても解決策を子供たちが探っていくことになる。
これらのシステムやプログラムは日本でも行われている。なのに、なぜか一般的に知られていない。そこにいじめを少なくする解決策のヒントがあるように思える。
一方、オーストラリア連邦教育省では、「National Day of Action against Bullying and Violence(全豪反いじめ&暴力デー)」として全豪の学校におけるいじめ対策についてのコンクールを行っている。
年に1度開催されており、2014年は各州から約2100校、96万人の生徒が参加し、いじめへの意識が大きく善処されつつあると言われている。
また、オーストラリアのプロ・ラグビーリーグ(NRL)が行っている、いじめ防止プログラム「Tackle Bullying」も好評だ。
このプログラムでは、スター選手やチームから1名ずつ選ばれたアンバサダーが学校を訪問して、スターの視点からスポーツマンシップやフェアな精神を伝えることで、いじめという行為の馬鹿馬鹿しさを伝えている。
こうした活動は、馬鹿にできないとても重要なプログラムだといえる。
子供の感受性の高さを生かして、教師や親ではできないところを補完していると言えるので、ぜひ日本でも行なってほしいところだ。
中間集団が崩壊した日本社会でいじめを減らすのは困難
さきほどのケーシーくんと同じようなことを日本ですれば、ヒーローどころか加害者として罰せられる可能性は高い。
また、後日、もっとひどい報復を受ける可能性もあるので積極的には勧められないと感じる人が多いことだろう。
「いじめはなくならない」。
これを前提として、一番重要となるのは、いじめっ子といじめられっ子の中間にいる人たちの役割だ。
一言でいえば「仲裁者」ということになる。
日本では、仲裁者は他国に比べると存在が薄い。
以下は、「ストップいじめ!ナビ」からの引用だが、日本の子供は年長になればなるほど「いじめの仲裁をしない」傾向にあり、傍観者となる傾向にある。
「傍観者」の出現率の学年別推移
「仲裁者」の出現率の学年別推移
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これは大人においても言える。
かつて筆者が日本に一時帰国していたときことだ。通学時間の朝、電車に乗ると車内で小学生4、5人が1人の男の子を中心に囲み、その子の帽子(通学帽)を取っては投げて遊んでいるのが見えた。
最初は遊んでいるのかと思っていが、その男の子が必死で「返してよ」と言っているので、しばらく見ていたら、今度は、その男の子の胸を突き飛ばすようになった。
オーストラリアでは1人の弱者を複数人でいじめることにはかなり敏感なので、そういうことがあれば、すかさず誰かが止めに入ることが多いが、その車内では大人がたくさん乗っているのに、誰もが知らんふりしていた。
結局、筆者が割って入り、「返してあげなさい。そして、車内で騒ぐな」と一喝すると、いじめっ子側の小学生は押し黙った。
このように、日本にはいじめの仲裁者が欠けている。
なぜ、そのような子供、そして、そのような大人が育つのか?
この答えは、社会学的に問題視される「中間集団の崩壊」から読み解くことができる。
中間集団とは、国家(全体)と個人の中間に位置する集団のことで、自治体や会社や学校などを指す。
もっとも小さな中間集団は家族だ。
しかし、現代の日本では、この中間集団が弱くなった。なくなったと言い換えてもいい。
例えば終身雇用制の崩壊やモンスターペアレントの出現による学校機能の脆弱化、そして核家族化における家族制の崩壊などが戦後70年ですっかりと定着してしまった。
こうした中間集団が崩壊した社会というのは、分かりやすく言うと、学校や町内の人が自分に対して無関心になったり、近くにいる他人を認めなくなる社会のことだ。
本来は近しい存在であるべき近所の同学年の子が敵に思えてくるということだ。
そのため、子供の親は「ぼやぼやしていると、落ちこぼれになるぞ」と教育する社会になりがちだ。
特に日本の社会は横並びを気にするので、近所のあの子より劣りたくない、みんなとは違う子のように思われたくないという意識が働きやすい。
そうなると、会社や学校(中間集団)は、自分(個人)を認めてくれる存在ではなく、蹴落としにくる存在となる。
他者を幸せにする者だけが幸せになれる
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さて、最後に子供にとって一番近い教育者である親はどう教えるべきかについて考えてみる。
よく、親や教師は子供に対して「立派な人になりなさい」と教えることがある。
しかし、さきほどのように中間集団が崩壊している日本社会では、「立派な人になりなさい」とは「ぼやぼやしていると周囲に抜かれるぞ。一生懸命努力して、相手よりも上の地位に就け」と教えてしまうことになる。
なぜなら、中間集団が崩壊した社会では、なぜ立派になれと教えるのかと聞かれたら、「自分の子供がが幸せになるためだ」と答えるだろう。
一方、中間集団が崩壊していない国(=自治体や共同体が機能している国)では、近しい周囲から認めてもらえる環境にあるので、少々、周囲に劣るところや違う点ががあってもまず気にならない。近しい相手の違うところを認めることの方がハッピーだからだ。
そういう環境の中でも、同じく「立派な人になりなさい」と教えるわけだが、その意味合いは異なってくる。
つまり、共同体が機能している国では、「他者を幸せにした者だけが幸せになれる」と教育する。
だから、各々が立派になるということは、たくさんの他者を幸せにしてきたということだ。つまり、自分も含めた、みんなが、社会が幸せになれるという考えだ。
これが「立派な人になりなさい」と教える本当の意味となる。
そして、それを遂行することによって、自然といじめは少なくなる。
いじめは確かに幼少期から大人になっても、必ずどこかには存在し、なくなりはしないが、
他者が幸せに感じることに幸福感を得る経験をすれば、人は確実にやさしくなれる。
もし、学校にいじめの加害者と被害者がその場にいるのであれば、教師はそのように教えてあげれば、きっといじめは少なくなるはずだ。
参考ブログ:「金持ちになっても幸せにはなれない本当の理由」を子どもに教えるには?
教育者にも読んで欲しい参考文献
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